静岡県立天龍林業高等学校 建築デザイン科1年
鈴木 準

 私の進むべき道を語るには、私の家族構成から紹介しなければなりません。
 私の家は、父・母・兄・弟と私の5人家族です。父の仕事は宮大工で母と共に工務店を経営しています。
 私達三人兄弟は、小さい時から父の作る神社や屋台を見て育ちました。
 屋台が完成して引渡す前に工場に行きよく乗せてもらいました。またピカピカの屋台には龍の彫物や唐じ師の怖い彫刻がついていて、怖かった事をいまでも忘れません。

 ある時、父に、なぜ宮大工をやりたいの?と聞いたところ、父が小学校1年の時、大工をやっていた父が亡くなり、母親の手一つで育ててもらったそうです。当時の生活は、大変貧乏な生活で、常にお腹がへっていたので、川へ行って、シジミや海苔を採り、山の方の人々に買ってもらい、パンやお菓子を自分で買っていたと話してくれました。母親の苦労している姿を見て育った父は、母親への恩返しの気持ちもあり、父親のやっていた大工ってどんな仕事かな?の思いが大工への始まりかなと言っていました。
 父は、中学を卒業して今の私の年には浜松で家大工の修業を始めたそうです。夜は浜松工業高校の建築科に通うという厳しい環境の中、勤労学生として、仕事と勉強を両立させながら学校を卒業しました。そのような父を私は尊敬しています。
 それから父は、宮大工の修業を重ね、25歳まで地元の大工を十分束ね神社の棟梁を努め、26歳で宮大工の工務店を設立したとのことです。

 そのような父を見てきた、兄と弟は小さい時から宮大工になりたいと心に決めていたようですが、私は中学2年まで両親に対して多少背を向けて生きていたように思います。
 この私の考えが変わったのは、中学の修学旅行で京都と奈良へ行ってからのことです。
 今までこの近辺では見たことのないスケールの神社やお寺の大きさに度肝を抜かれました。
 その中でも、東大寺の南大門に到着した時の感動は今でも目に焼き付いています。
 今まで見た屋台の力神は、大きくても60p、南大門には鎌倉時代に運慶が彫刻したという、すごい形相の気をみなぎらせた、約8.5mもある仁王像が身構えていて、私はその迫力に思わずたじろぎました。
 南大門の下から見上げた高さ、大きさは、とても人間技とは思えないほどでした。
 そこで、思い出したのが、この南大門を建てた棟梁は、この仕事が最後の仕事納めと決めて、自分の今まで使っていた墨つぼを棟木の上に納めてあったという話を聞き、その宮大工棟梁の心意気というか、生きざまの潔さに言いようの無い気持ちになの、いつまでも見上げていました。

 南大門を過ぎ、回り廊から大仏殿の正面へ遠目にたつと、人がまるで蟻のように小さく見え、大仏殿の大きさに感動した。また屋根の棟に金色の鴟尾が光っているのが印象的でした。
 そのあと斑鳩の里に飛鳥時代に建立されたと言われている世界最古の寺、法隆寺に行きました。
 東大寺とは規模的に大きく違って全体的に高さは低いですが、自然の中に溶け込む曲線美があり、ほのぼのとした感じがしました。
 入口を過ぎ、先ず五重の塔が見えた。その一番下の屋根に猿のようなものが、屋根の荷を歯ぎしりをしながら支えているような像が目に入った。私は「なんだろう」と思い、五重の塔を一廻りしました。
 よく見ると一つ一つ顔が違うことに気が付き、一番重そうに支えているのが左奥の隅だということを発見した。1300年以上も前に、この塔を建てた飛鳥の匠のすばらしい技術力とユーモアに感動しました。
 数々の説明の中に雲肘木という言葉を聞き、何かなあと思い聞き入っていたら、飛鳥の匠はこの建物を長くもたせるために屋根の出を多く出したいが、そのまま出したのでは、瓦の重さで下がってしまうので、どうしたら良いかと、のんびりと寝転んだ。空を見ながら考えていたと言う。そこへ色々な形の雲が流れていくのを見て思い付いたのが、屋根の重さを支える腕木のような雲肘木の始まりと聞き、やっぱり飛鳥の匠は自然と共に生き、すばらしい智恵と工夫の中でのんびりと暮らしていたのではないかなあと思いました。

 私はこの修学旅行に行く前は、古風な神社や寺ではなく、なぜディズニーランドや楽しい所へ行かないのかと思い、私は両親に聞きました。すると自分達も中学生の時、同じ所へ行ったそうです。父は、今の日本人は日本の本当に良い所を忘れ、外国ばかりに憧れているようだが、先ず日本人である以上、日本の文化の始まりである奈良や京都を見学するべきで、日本にはこんなすばらしい所があるんだと言うことを理解する必要があると同時に、自分自身が日本人としてどのように生きるかを考えるためにも大切な事であると、学校の先生方も思っているのではないかなあと言っていました。
 この修学旅行から帰って来て初めに先生や親の言う事が少し分かってきたような気がしました。東大寺や法隆寺のようなすごい建物を建てられるようになりたいと言う、飛鳥時代へのロマンと、宮大工の魅力が私の中で芽生えて来たような気がしました。

 9月になったある日のこと私の兄が天竜林業高校3年生で卒業を控え、就職先を決めなければならない時期が来ていました。この時期は父親の仕事が忙しい頃で御殿屋台の完成を目前にして、もう少し待っていろと言われた兄は困った顔をしていました。
 この頃の父は毎日残業で夜中まで働いて大変そうでした。
 それから数日が過ぎ、NHKでプロジェクトX「薬師寺、0からの挑戦、日本一の鬼の名工と若武者」という番組を見ていた父が、この日本一の宮大工、西島常一さんは父が若い時から憧れていた棟梁で「俺も薬師寺へ行きたかったなあ」と言っていました。
 そのあと4人のお弟子さんが紹介され、その中の一人、滋賀で現在、宮大工の棟梁をされている建部清哲さんを見て、兄の修業を頼みたいと思っているようでしたが、私はそんな簡単にテレビへ出るような親方の所へ、修業に行けるわけないぐらいに思っていました。ところが両親は次の日曜日、滋賀の建部さんの実家をたずねてお願いに行って来たと言うではありませんか。いつもガミガミ怒ってばかりの両親が我が子のために飛んで行って話を付けてきたと知り、両親の思いの深さに感心しました。
 それから一月が過ぎ、兄は宮大工の見習いとして、建部さんの所へ就職することが決まりました。本当によかったと思います。

 今、兄は滋賀県でお寺の本堂工事を手伝いながら修業に励んでいます。京都、奈良、滋賀は宮大工の本場だと言うこともあり、修業が大変厳しいようです。見習中は、オートバイや車の運転は禁止されているので足で歩いて買い物に行き、自炊をやっているようです。毎日兄弟子の御飯の支度をすることも仕事の内だそうです。夜8時ごろから夜中の2時ごろまでノミやカンナを研ぎ、明日の準備をして朝は5時ごろ起床し、御飯の支度をしていると聞いて、私は、宮大工と言うのは憧れだけでは、とても続かない厳しい世界に入った兄を本当に誇りに思います。
 父が言うには、鉄は熱いうち打てという昔のことわざにあるように、若い時にどれだけたたかれるかで、その人の人生が決まる。
 建部棟梁さんは、すごくやさしくて良い人だから兄のためを思いわざと厳しくしているのだと言っていました。今の世の中は子供を近くに置いて、ねこかわいがりする、親の幸せだけを考えている人が多いが、本当に我が子がかわいければ、獅子の子落としができるような親にならなくてはいけないといつも言っています。

 今の私には、宮大工になるということが、どのくらい厳しい修業をしなければならないのか、分かっていません。先ずは、社会人としての心構えをしっかりしたいと思います。
 父は、私に図面の書ける宮大工になりなさいと言っているように、将来は図面の書ける宮大工になりたいと思います。
 また、一生懸命に3年間を天竜林業高校で過ごし、卒業したいと思います。卒業後は立派な宮大工になれるように腹をくくって頑張り、人々に感動してもらえるような社寺を作れるように努力したいと思います。

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